富津シティロータリークラブのあゆみ - 国際ロータリー第2790地区 | 富津シティロータリークラブ

富津シティロータリークラブ

 

富津シティロータリークラブのあゆみ

富津市の沿革

昭和46年4月25日、富津町(S30.3 富津町、青堀町、飯野村合併)、大佐和町、天羽町の3町合併により富津町となり同年9月1日市制施行。

 

東京湾南端の富津岬以北の京葉工業地帯の受皿作りとしての合併となり、埋立による企業進出を図り現在、東京電力富津火力発電所、新日鐵総合研究センター、フジクラ、ISB、浜田重工、友和産業、太平工業等の進出を見た。今後 「人と自然と産業が調和した活力あるまち」 をめざして、首都圏近郊都市として躍進を希まれている。

地勢・人口・産業

房総半島の中央西部に位置し、北は東京湾、南は浦賀水道に面し、景勝地富津岬を含め、長海岸線を有する。東は君津市、鴨川市、南は鋸南町に接し、面積は205㎢余りある。人口48,075人(2010年)。

 

当クラブのある地域は、富津地区であり、東京より50㎞圏内に入り、京葉工業地帯の最南端にあたる。埋立地には、東京電力富津火力、新日鐵総合技術センター、フジクラ、ISB、浜田重工、友和産業、太平工業、駒井ハルテック等の企業進出を見、工業化が進んではいるが、地場産業の蔬菜、米作を中心とした農業、アサリ、浅草ノリ、漁業等も盛んである。

 

市は長期計画を立て、地区をそれぞれの特色に合わせてゾーンとしてとらえ、役割分担をした。当富津地区は、臨海ゾーン、住居商業ゾーン(東京湾沿い)、内陸農業ゾーン、海洋海岸ゾーン(富津岬より南)とにわけられる。

歴史

・当市は気候温暖で海の幸、山の幸に恵まれているため、有史以来人々が住みついた。特に、縄文・弥生時代を通じての古墳の遺跡は有名であり、中でも飯野地区にある内裏塚は県下でも最大級の前方後円墳として名高い。他にも、亀塚、上野塚、九条塚、稲荷塚等、規模も大きくその時代の豪族の力の大きさを推測できる。

 

・その後、富津の地名の由来と歴史的な日本武尊伝説との関わりが見られる。伝承による日本武尊の東征のルートが、三浦半島の走水から富津岬に渡る海路だとされ、富津の貴布弥神社に伝わる縁起にある様に、しけに遭い妃の弟橘媛が、海神の怒りを鎮めんとして入水し、その際海上に布を流してその上に身を投じたので、この浦を「布流津」という説もあり、又、妃の着衣が流れ着いた浦でふっつとなったといういろいろな伝説がある。

 

・古くは総の国であった房総半島は大化改新以来、上総、下総の二国となっており、東海道に属していた。養老2年(718年)上総の国平郡、安房、朝夷、長狭の四郡を分け安房国とし、天平13年(740年)これを上総国に併合し、天平宝享元年(757年)再び分立している。又、頼朝が兵を起こす時、上総軍共々活躍する。その後里見氏の統治下になり慶長年間(1614年)まで続く。保科(飯野)、松平(佐貫)が統治し、松尾芭蕉、小林一茶等も吟詠に来津している。又、浦賀奉公等に命じ、江戸防備のため海堡を築き砲台を設置したが、会津松平藩を中心に富津のお台場も築かれ、それ以来富津岬は海軍の要塞地となった。

富津地区は、小糸川流域の生産物を集積、出荷する港でもあった。特に、小糸からいかだで下る材木、炭、薪、味噌、醤油等の農産物から江戸の人口が増えるに従い、江戸浦で採れていた江戸前の魚介類も不足し、上総の国富津~市原位の間で良く採れた海老、カニ、平貝、赤貝、アサリ等、鯛、平目、鰈等々も、五大力船等で出荷された。

 

産業の歴史に於いて特筆するのは、江戸末期に江戸により近江屋甚兵衛によって伝えられた浅草のりの生産方法であった。当時は現在でも、有数な生産地の一つである。又、西川地方の南瓜(かぼちゃ)、西瓜(すいか)の生産、富津の潜水漁法は一時代盛大に行われた。